人声久語(拾遺帖つづり)

世の中そんなに捨てたもんじゃないよ あんまり頑張らないで 捨てられるものは捨てて行きましょう

人が良いと言われても

人が良いと言われても

自分の中の納得の行かない事には、どんな些細なことでも嫌なんです

逆に、1+1は2にならなくとも、限りなく近かったり、そのくらいでも仕方ないなぁ と、思えたら許せるのです。

今、国の補助金によって成された(国民の税金を使った)業務における国の検査を受けています。
それはもう妥協はありません。
11月の国会報告まで行ってしまっては、補助金の変換や行政の汚点となることから必死に対策を練るわけなのですが。。。

ちょっと待ってください
私は不正をして、設計検討を行ったわけでは、決してないのです。

不都合と思えても?国が決めた設計基準を冒さぬように地元に益になるような設計しているのです。

それを、我が息子のような若い技術者が
必死に説明しようと試みているのです。

頼られて、遅くまで待たされたとしても、いいですよ
、大丈夫
、自信をもって、返答してください。

解ることは、応援しますよ
いつでも連絡下さいと

たとえ人が良すぎると言われても、
お金など貰えなくとも、
どこを見てやっているのかの自負さえあればなんてないじゃないの。。。

いいオッサンには、悲しく、辛い、自己満足かもしれませんが

明日は、傍に詰めてあげようと思っています

ありがとう

 

Of course

Of course

オブ コース と発音したいところをグッと

我慢して、、、

オフ コースと軽ーく言うのだよと中学二年で教えられた
ムチを手にするフクシマ鬼の塾でね

Of course.”
「もちろん(いいですよ)」と何故か高飛車な感じになるのが、オフコースなのだと大きくなって、もう一度、大きくなって知った。

ところが sure!、、、、

“Sure.” 「かしこまりました」

これを大きくなって、認識できたのであった。
同意や賛同をあらわす表現であり、相手の意見や依頼に対して
「そのとおりです」「間違いありません」
という意味合いで使われるフレーズだと。

これ是非とも
”of course “
と区別して使いたいと思いませんか。。。。

もちろん、どうぞ、構いませんとネ

オフコース
鈴木康博のいた時代のオフコースがとても懐かしい。。。

それが、「僕の贈り物」なのかもしれない

 

 

 

 

宵待草

『宵待草』(よいまちぐさ) 竹久夢二

待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな


1910年(明治43年)夢二27歳の夏、房総方面に避暑旅行をした際、銚子から犬吠埼に向かい、海鹿島(あしかじま)町の旅館に宿をとった。
夢二にとってこの旅行は、離婚した家族とのひとときであったのだが、、、、

たまたま当地に来ていた女性、秋田出身の長谷川カタ(19歳)に出会う。
彼女は、成田の高等女学校の教師である姉のところに身を寄せており、旅館の隣には長谷川家があり、ちょうどそこへ家族を訪ねていたカタであった。

出会った夢二は、たちまち彼女に一目ぼれしてしまう。

夢二はあきらめきれなかったのか、翌年の秋、一人で再び海鹿島の地を訪れたのであるが。。。

長谷川家に彼女の姿はもうなかった。

勤務先の成田へ戻ったカタは既に嫁いでいたのだ。


いくら待っても来るはずのない恋人を思い、夢二は悲しみに暮れる胸の内を一篇の詩に綴ったのです

このような切ない恋心は、何故か男がよく似合う。。。。。

男の方が、惚れやすく、諦めきれぬ、厄介な性(さが)なのだろう。


ひとつ間違えば切なさを越えて、涙が滴り落ちるのが見えてしまうから

所詮、隠すのが下手、空いばりが情けない、それを認めず、人のせいにする、、、

だから、男は可愛くて、無邪気な阿保なんだと自戒するのです。

あっ! 。。。 私も 立派な男であった

しかし、夢二にはかないやしません

そんな、卑怯さが感じられないじゃないですか


50年足らずの短い生涯にわたり恋多き男であったとされる夢二

「宵待草」の原詩は次のようです(wikiより)

 遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が
 あれあれ風に吹かれて 来る待てど
暮らせど来ぬ人を
 宵待草の
心もとなき想ふまいとは思へども
 我としもなきため涙
 今宵は月も出ぬさうな

海鹿島は、このチーバ君の左耳の突端に当たります。
今日は、足首の前側まで出掛けています。
もちろん仕事ですよ^^
千葉にお出での節は、私にお伺い下さい。
地名を言ってもらえば、県内ほぼわかりますよ。ただ、千葉都民在住地以外でね^^

 


f:id:tanokkyu:20190118104018j:imagewikiより

雲外蒼天

雲外蒼天

試練を乗り越えていき、努力して乗り越えれば快い青空が望めるという意。
雲はさまざまな障害や悩みを暗示している。「雲外に蒼天あり」ともいう。


今日も、6:50過ぎからは横浜港には朝陽が眩しく降り注ぐ朝を迎えることができた。

あれから24年にも前になるのか。
あの驚きの光景にはいったい何が起こったのかと目の前の光景は今でも焼き付く。

1995年1月17日午前5時46分
兵庫県淡路島北部を震源とするM7.3の国内史上初の震度7を観測した都市直下型地震であった。
断層に沿う地震の怖さ、それに付随する被災の連鎖。複合要因が重なり被害は甚大なものとなってしまうことを人生で初めて教えられた事象であった。
しかし、今まさに見事に復興をはたした。。。。。ように見えること「人力による尽力の賜物」と言えるのでしょう。

阪神淡路にも真っ青な空が見えていることでしょう。

東北震災から3月で8年が経とうとしている。

恥ずかしながら、復興のあり方が理解できず身を引いた土木屋の悔恨が其処には残っている。
福島ごめん
あれだけの被害を出して、人を帰ることを許さない故郷を創りだし、それでも悔いることなく推し進める、、、
外国にそれを売り込む、、、
何か、昭和の不安を思い起こすのはわたしだけなのか

それでも、雲は流れ、蒼い空を見せることができる。
そんな、自然をありがたく思い、青空に向かいながら
沖縄ごめん

でも、
「いつまでも ありがとう!」って大きく深呼吸をしてみよう

さぁ!
f:id:tanokkyu:20190117080645j:image

お喋り

お喋りとは、いけないことでしょうか

「喋」という漢字は (口 + 枼)

「口」の象形で「言葉」の意を示し
「枼」は「木の葉」の象形で「薄く平たい」の意を示します。
これから、「喋」という漢字は「薄く平たい言葉」、「しゃべり、おしゃべり」を意味する「喋」という漢字が成り立ったようです。

おしゃべりだね、口数が多すぎるよ等とあまり良い意味で使わない言葉のような気がします。

本当にそうでしょうか

一枚の葉っぱにしたためた詞が言葉になって「喋」が生まれたとしたら、とても大切な事だと思いませんか。

被災に遭われた方の一番の心を安らぎとさせるのは人との「会話」だと言います。
また、心を病んだ方を和まし、心開くようになったときに同じように口元も緩んで行くときに「言葉」が生まれます。

どうでしょうか「喋」とは、とても温かく、心に労りを与えるものなのでしょう

鳥たちが楽しそうにチュンチュンと「ついばむ」様子も「喋」を意とし、
また、「ふむ」、「ふみつける」も「喋」
を意とすることを忘れてはなりません。

安易で心ない「喋」と聞く事で安らぎを与えられる「喋」と。。。。

私達大人ですから、心して使えれば幸いです


「You Are The Sunshine Of My Life 」

君は僕の命を照らす太陽 
だから僕はずっと君のそばにいよう 

さぁ声をを出しましょう

「You Are The Sunshine Of My Life 」