人声久語(拾遺帖つづり)

世の中そんなに捨てたもんじゃないよ あんまり頑張らないで 捨てられるものは捨てて行きましょう

かいこく の がいこく人

今7:08、「生麦」の高架をバスで走っている。
東京湾アクアライン、神奈川県川崎市から東京湾を横断して千葉県木更津市へ至る高速道路を通り房総半島の南端まで打ち合わせに向かう途中である。
東京湾アクアライン道路全体の総延長は15.1kmで、東京湾を横断する川崎側の約9.5 km区間東京湾アクアトンネルと呼ばれる海底トンネルとなりここは、日本一標高の低い位置(海面下60m)を通っている。土木屋の端くれの鼻高〰️々である。
通る度に思うことなのだが、品川水族館のように透明なアーチになれば楽しいのだろうと。。。。
このトンネルは、"沈理工法"として、陸上で作成したトンネルを海底で連結させる工法を採用しているのです。

このアクアラインは当初、通行料金が片道3000円とバカ高く通行車両も少なかった。今では、渋滞をするほどの東京湾を繋ぐ主要な道路となっている。これは、我らが兄貴「健作知事」の英断のお陰様なのである。千葉県が一部を負担していることは自明の理である。

そんな、事を話しているが事故渋滞のせいで40分経つがまだ浜川崎 JFEスチール辺りで止まったり進んだりの繰り返しである。
(まだ川崎のICまでは5kmくらいはありそう)
今日は、気を緩めて、ゆっくりいきますか。慌てても、ダメな時はダメとしよう。

「生麦」と言えば、開港後1862年9月14日、薩摩藩島津久光の一行が江戸からの帰路、東海道の生麦村(現・横浜市鶴見区)で馬に乗った英国人4人と遭遇。
久光は『公武合体』(こうぶがったい)を
幕府に要求し、認めさせた凱旋のかえりみちでもあったのです。
開講間近の横浜では、外国人の遊興範囲
4人のイギリス人は「脇を通れ」と言われただけと思いこみ、行列の脇を通ろうとします

「馬を降りて道を譲れ」
「降りろ!」

英国人が馬を下りずに引き返そうとしたりしたことがよけいに行列を乱したのを無礼討ちとしたのです。
1人が死亡、2人にけがをさせた「生麦事件」は教科書にも載っていましたよね。
大名行列を横切っていいのは飛脚と産婆のみでした。

一時間経過、やっと川崎のトンネル入り口
まで来ました。

薩摩藩は賠償請求と藩士の引き渡しを拒み、薩英戦争へと突入し、鹿児島湾で戦闘が繰り広げられました。
この戦いでは、イギリス艦隊に大きな損害を出し、薩摩藩も市街地の10分の1が燃える大惨事となり、薩摩藩は幕府から2万5,000ポンドを借り、それを賠償金としてイギリスに支払うことでこの事件は決着します。

外国人遊歩規定(がいこくじんゆうほきてい)があることは、ご存知でしたか。
外国人が外国人居留地から外出して自由に活動できる範囲についての規定であり、自由に行動できる範囲としては、一般的に開港場からの距離を最大10里(約40キロメートル)とするよう定められていたのです。

アメリカと結んだ日米修好通商条約においては、第7条に以下のように定められている
「日本開港の場所に於て亞墨利加人遊歩の規程左の如し」
「神奈川(横浜開港場)」
 六郷川筋を限とし其他ハ各方へ凡十里
その西の限界は小田原の東、酒匂川東岸となっていたのです。

と、言うことは「生麦村」は今の「横浜」の北端、川崎市との境で「川崎」の上が「羽田」で「六郷土手 。。。。
天気の良い日は、足を伸ばしたくもなりますよね。
我がイギリスの広々とした田園風景を想像してください。そこをさっそうと馬上で駆け巡る姿を。
彼らは、どこまで行こうとしていてのでしょうか。

敗北して近代化の必要性を痛感した薩摩藩は攘夷(じょうい)論から開国論に転じたのです。
これを機に、明治維新の流れができたと言われるのでした。

結局、木更津で内房線には乗れませんでした。
今日は、とても暖ったかです。8時43分

ワッハハハハ~

さぁ仕事、しごと、お勤めを^^